こんにちは。プロフィールを開いていただいてありがとうございます。
このプロフィールにはわたしの人生で経験したことを正直に綴っています。
どんな人なんだろう?と興味を持っていただいた方、似た経験あるな~だったりこんな人もいるのねなどいろいろだと思いますが、読んでいただけると嬉しいです。

生まれなかったかもしれない人生

中3と小4の娘がいる父と子なしバツイチの母が再婚。

母が私を身ごもったとき、中3の姉から「赤ちゃん堕ろしてきて!」と言われ母は「こんな家にはいたくない。」離婚を覚悟していました。父と祖母の涙ながらの説得でなんとか母も家にとどまり、生まれてくることができました。

いい子でいるしかなかった幼少期

家族全員で笑ったことは一度もありませんでした。全員が揃う毎日の夕食が一番苦痛な時間で自分の居場所がない感覚です。
そんな中で唯一の救いは、テレビのお笑い番組のドリフと欽ちゃんで家族が笑うことでした。

経済的にも苦しかったため、旅行や外食に行ったことはなく、誕生日やクリスマスにプレゼントをもらったこともありません。親を困らせてしまうと思い、ねだることもできませんでした。

幼いながらもわがままを言ってはいけない、両親のけんかの原因になってはいけないと感情を押し殺し、いい子でいようと決めました。

家族に愛されていないと感じていた10代

父と姉がいない日中に母は「お父さんはお姉ちゃんだけかわいいのよ」「お姉ちゃんはあなたのこと好きじゃないから頼っちゃだめ」とわたしに言い聞かせていました。

父はわたしの学校行事に一度も来たことはありません。運動会は「1位じゃないんだろ。ビリを見に行く必要はない。」
自分ではがんばったと思ったテストを見せると「なんで100点じゃないんだ。」

わたしは愛されていないんだと確信し、完璧でなければ見捨てられるという不安を感じながら、家でも学校でもいい子でい続けました。

結婚し子どもを授かるも産後うつに

短大卒業後、地元の市役所に就職。結婚し2人子どもを授かりました。

一人目の娘は、ものすごく泣く子で、おっぱいの後ずっと立って揺らしながら抱っこしなければなりません。物音にも敏感ですぐ泣くので、家の中で息を殺して足音も立てないようにして。

夫は「家事も育児もやったことないから」と何もしません。

24時間体制の育児で、よくわたしも娘と一緒に声を上げて泣きました。

ここでも「いい母、いい妻でいなければ」とワンオペ家事育児でがんばっていました

10代の若いママたちはおしゃれもして、仲間たちと楽しそうに子育てしているのに、わたしはノーメイクで髪はぼさぼさ。鏡を見る余裕もありません。

なぜ、楽しく子育てできないのだろう。

泣いてばかりの娘をかわいいと思えないわたしは、母性がないのかと悩みました。

育児休暇で仕事にも行かなくなって、社会から必要とされていないとも感じていました。

気づいていなかったけれど、あの頃のわたしは完全に産後うつ】の状態でした。

完璧を徹底して植え付けられた職場

2人の子どもを育てながら、部署異動を3~4年ごとに経験。

ある文化施設に配属になったときは人間関係に悩みました。

1人は、人には厳しい理不尽な管理職。

「あれ、どうなってる?」あれって何のことだろう…即答できないと怒り出し、説教部屋に呼び出され、1時間説教が続きます。気が収まるまで、次々職員を呼び出し説教が続きました。説教から逃れるために、すぐ説明できるよう必要かどうかもわからない資料を作成して残業をすることもよくありました。

もう1人はとても仕事ができる女性の先輩。

管理職の理不尽な要求にもすべて応え、ほかの職員にも自分と同じレベルを求めていました。
わからないので聞くと「ちゃんと調べたの?」とすぐには教えてくれません。
提出した書類は赤ペン先生のように真っ赤になって戻されます。
電話も聞いていて、切った後に指導が入ります。

何かするたび、毎日何十回も注意を受けました。
もう「何をしても叱られる」とびくびくし、事務室は息をするのも苦しい逃げ出したい空間でした。

とても理不尽なことが多い職場でしたが、またいい職員でいなければ」とガマンしていました。

あがり症と電話恐怖症

職場研修のグループワークで、グループ代表でみんなの前で発表することに。
みんながこちらを注目している中、マイクで話そうとしたら、自分の声や手足が震えていることに気づき、頭が真っ白になりました。
何を話したか覚えていないほど、しどろもどろになって発表を終えました。

同期や知り合いがたくさんいる研修で、みんなに恥ずかしい姿を見られたことにひどく傷ついていました。

それ以降大勢の人の前でマイクで話すのが怖くなり、自己紹介で名前を言うだけでも順番が近づくだけでドキドキするようになっていました。

集金がある部署では、苦情や怒鳴られる電話が毎日のようにありました。
激しい恫喝の電話の時は、人前で話すのと同じように声や手が震え、何も話せなくなります。

怖さよりも周りの職員に震えていることを気づかれるのではといつも不安でした。

この頃には、恫喝ではない普通の電話も苦痛で、自分から電話をかけるときはほかの職員に聞かれないよう静かな時を避け、ざわざわしているときを狙ってかけていました。

どちらも症状はほぼ同じでわたしは【社交不安障害】になっていました。

「完璧な自分でいなければいけない」が根底にあったのだと思います。
毎日鳴る電話も人前で話すようなことも、また恥ずかしいところをみんなに見られるかもと思うと不安でたまりませんでした。

働きすぎた地獄の3年間

学校教育関係の職場に異動。人数と仕事量が合っていない部署でした。

みんな時間外勤務が当たり前で、終業の鐘が鳴っても微動だにせず、わたしだけに聞こえているの?異動当初はそう思うほどでした。

勤務時間中は電話や窓口が忙しく、定時を過ぎてやっと自分の仕事ができるという状態です。
毎日残業で早く帰りたくて夕食を取る人はいません。わたしもデスクの引き出しにカロリーメイトを常備し、左手にカロリーメイト、右手でパソコンで仕事をしていました。

平日は日付が変わって25時過ぎに帰っていました。

土日の方が電話もなく仕事がはかどるので、休日出勤も普通にしていました。

月の時間外の過労死ラインは80時間と言われていた当時、私は200時間近くしていました。
80時間を超えると管理職に注意を受けるので、80時間に収まるように提出しサービス残業が常態化していました。

「徹夜したって終わらない…」毎日絶望的な気持ちで過ごしていました。

この時期プライベートでは2人の子どもがやっていた吹奏楽部の保護者役員を小・中掛け持ちでしており、ほかの役員さんと打合せや事務仕事をし、睡眠時間は3時間程度。

上の学年のママたちは、苦情ばかりで一切手伝いはしません。

子どもたちの練習を見る機会が多かったので、コンクールやイベント出演など次々やってくる仕事も、がんばってる子どもたちのためだと感情を押し殺して「いい保護者」でがんばっていました。

息子は吹奏楽部のほかにエレクトーンとドラム、そろばんもやっていたので送迎や付き添い、コンクールやイベントもあり、自分の時間はゼロでした。

当時のささやかな夢はソファーに座ってドラマを見ることと、お風呂の湯船に浸かること、何より1秒でも多く寝たいでした。

そして、息子は2年間ほぼ不登校になりました。
学校に行ってほしい、でもゆっくり向き合う時間がない。
泣き叫ぶ息子を引きずるように学校に連れて行ったこともありました。

仕事と家事と役員と習い事と不登校を抱え、3年経ったころ、

わたしのからだと脳は限界を超えていました。

毎日頭痛と下痢と倦怠感で職場に這うように行っていました。

「過労死は他人事じゃない、ありえる…」「すべてなげ捨てて、消えてしまいたい」
どちらの考えも浮かびました。

「どうしたらいいの…」帰りの車の中で頬が濡れていて、「わたし泣いている?」

やっと、わたしの本心が強制終了をかけたのです。

はじめてのカウンセリング

ちょうど職場のストレスチェックがあり、保健室に呼び出され相談の結果、カウンセリングをはじめて受けることにしました。

初回はずっと我慢していたこともあって、話そうとしても涙が止まらず何も話せませんでした。回を重ねるごとに冷静に話せるようになり、

「あなたがやらなくても誰かがやりますよ」「人に頼っていいんです」と言われました。

今思えばすごく当たり前で、異動するたび担当者が変わるのを繰り返してきたのに。

周りの職員もがんばっているし、助けてなんて言えない、わたしがやらなければという考えに縛られていたんだ…

今までのようにがんばりつづけたら、周りにも迷惑がかかると思い、「休ませてください」
人生ではじめて「できません」と言えた瞬間でした。

休職からの復活

すぐに休職し、役員の仕事も代わってもらい、家事もほとんどせず今までの分を取り戻すように眠り続けました。
それまでは複数のやらなければいけないことに追われる毎日でしたが、無理してがんばらない、疲れたら休むを意識して過ごしました。

精神科は混んでいて、話はあまりできず、投薬をしてくれるところでした。

休職中も定期的にカウンセリングを受け、小さなできたことを褒めてもらい、ようやく自分は無理してがんばりすぎていたと納得しました。

しっかり休養でき、無理だと諦めていた仕事に復帰することができました。
また復帰時に自分のやりたい仕事を伝えることができました。

わたしも誰かをラクにするお手伝いをしたい

自分がしんどかった時、誰にも言えなかった話をすべて受け入れ、社会復帰まで寄り添ってくれたカウンセラーさんにはとても感謝しています。

助けてと言わず、あのままがんばり続けていたら、今のわたしはありません。
まだ寝たきりの生活を送っていたかもしれません。

振り返ってみると、わたしの人生は“生きづらさ”との闘いでした。小さいころから周りに気を遣い、完璧を目指しがんばるいい人です。

無意識にやっていましたが、がんばろうとしても心には限界があるということに気づかされました。

もっと早く助けてと声をあげていたら、
もっとラクだったのに。

「しんどい」や「助けて」は棒高跳びくらい高いハードルに感じていましたが、言ってみたら意外と大丈夫かも…かっこ悪い、完璧じゃない自分でも見捨てられないんだ、と心が軽くなりました。

“心理療法ってすごい…”わたしも一人でがんばってガマンしている人をラクにするお手伝いをしたいと思うようになりました。心理講座も受講し、さらに心の在り方の大切さを実感しています。

人は自分が普通という基準で生きていますが、日々の生活の中でストレスや不安が積み重なっていきます。そんなとき、一人で抱え込まずに、誰かと話すことで気持ちが軽くなることもあります。

「最近、なんだかモヤモヤする…」

「誰にも話せない悩みがある

「気持ちを整理したいけれど、どうすればいいかわからない 

もし、そんな思いが少しでもあれば、どうか気軽にご相談ください。

「こんなことで相談なんて…」がんばり屋さんほどガマンし、自分で何とかしようと考えがちですが、“こんなこと”の段階でお話いただいたほうが早くスッキリできますよ。

カフェに気分転換に行くように、誰もが気軽にカウンセリングを受けるのが普通な世の中になるのがわたしの理想です。

ガマンして生き続けるほど人生は長くありません。

今、少しの勇気を出して、一歩踏み出してみませんか。

あなたの心に寄り添い、一緒に解決の糸口を探していきます。 

心が少しでも軽くなったり、あなたらしく前向きに生きるお手伝いをさせていただけたらと思います。

あなたのお話をじっくりお聞かせください。お会いできることを、心からお待ちしております。