プロフィール

はじめまして

完璧主義とガマンを手放し
あなたらしく生きられる
安心できる居場所へナビゲート

陽だまりこころカウンセラーの
中川真希
です。

プロフィールを見ていただき、ありがとうございます。

もしかするとあなたは今、仕事や家庭、人間関係でがんばりすぎて、
心が疲れている状況かもしれません。

「仕事や家事を完璧にこなさないと気が済まない」

「疲れているのに、まだ大丈夫と無理をしてしまう」

「人に頼るのが苦手で、つい一人で抱え込む」

「いい人でいようと頑張りすぎる」

「自分がガマンすれば丸く収まる…」

そんな自分を変えたくても、どうしていいかわからない。

そんな悩みを抱えていませんか?

カウンセリングは、あなたが安心して心を開ける相手と出会うことが、とても大切です。


私がどのような人生を歩み、カウンセラーとなったのか。

この先のプロフィールを覗いていただけると嬉しいです。

いい子でいようと決めざるを得なかった幼少期

中3と小4の娘がいる父と子なしバツイチの母が再婚。

母が私を身ごもったとき、中3の姉から「赤ちゃん堕ろしてきて!」

母は「この家にはいられない。」離婚を覚悟していました。

父と祖母の涙ながらの説得で母も家にとどまり、

なんとか生まれてくることができました。

家族同士の会話で笑ったことは一度もありません。

全員が揃う毎日の夕食が一番苦痛な時間で、自分の居場所がない感覚です。

唯一の救いは、テレビのお笑い番組のドリフと欽ちゃんで家族が笑うことでした。

経済的にも苦しく、誕生日やクリスマスにプレゼントをもらったこともありません。

親を困らせてしまうと思い、ねだることもできませんでした。

幼いながらもわがままはいけない

両親のけんかの原因になってはいけない

感情を押し殺し、「いい子でいよう」と決めました。

父の言動から愛されていないと不安を感じていた10代

母はわたしに

「お父さんはお姉ちゃんだけかわいいの」

「お姉ちゃんには頼っちゃだめ」

と言い聞かせていました。

父はわたしの学校行事に来たことは一度もありません。

運動会は「1位じゃないんだろ。ビリを見に行く必要はない。」

自分ではがんばったと思ったテストを見せると「なんで100点じゃないんだ。」

わたしは愛されていないんだと確信。

完璧でなければ見捨てられるという不安

を抱えながら、

家でも学校でもいい子でい続けました。

いい母でいなければと悩み産後うつに

短大卒業後、地元の市役所に就職。

結婚し2人子どもを授かりました。

一人目の娘は、ものすごく泣く子で、

おっぱいの後ずっと立って揺らしながら抱っこしなければなりません。

物音にも敏感ですぐ泣くので、家の中で息を殺して足音も立てないようにして。

夫は「家事も育児もやったことないから」と何もしようとしません。

24時間体制の育児で

わたしも娘と一緒に声を上げて泣いていました。

それでも、

「いい母、いい妻でいなければ」

ワンオペ家事育児をがんばっていました。

10代の若いママたちはおしゃれもして、仲間たちと楽しそうに子育てしているのに。

わたしはノーメイクで髪はぼさぼさ。
鏡を見る余裕もありません。

なぜ、楽しく子育てできないのだろう。

泣いてばかりの娘をかわいいと思えず、母性がないのかと悩みました。

育児休暇中は仕事にも行かなくなり、社会から必要とされていないとも感じていました。

あの頃のわたしは完全に産後うつ】でした。

完璧を徹底して植え付けられた職場

2人の子どもを育てながら、部署異動を3~4年ごとに経験。

ある文化施設に配属になったときは
人間関係に悩みました。

1人は、人には厳しい理不尽な管理職。

「あれ、どうなってる?」

「あれって何のことだろう…」

即答できないと怒り出し、説教部屋に呼び出され、1時間説教が続きます。

気が収まるまで、次々職員を呼び出し説教が続きました。

説教から逃れるために、必要かわからない資料作りで残業もしました。

もう1人はとても仕事ができる女性の先輩。

ほかの職員にも自分と同じレベルを求めていました。

わからないので聞くと「ちゃんと調べたの?」とすぐには教えてくれません。

提出した書類は赤ペン先生のように真っ赤になって戻されます。

電話も聞いていて、切った後に指導が入ります。

何かするたび、毎日何十回も注意を受けました。


もう「何をしても叱られる」とびくびくし、

事務室は息をするのも苦しい逃げ出したい空間でした。

毎日理不尽なことばかりの職場でしたが、

「いい職員でいなければ」とガマンしました。

自分を嫌いになった
がり症と電話恐怖症

職場研修のグループワークで、グループ代表でみんなの前で発表することに。

みんながわたしに注目しています。

マイクで話し始めると、自分の声や手足が震えていることに気づき、頭が真っ白になりました。

何を話したか覚えていないほど、しどろもどろになって発表を終えました。

同期や知り合いがたくさんいる研修で、

みんなに恥ずかしい姿を見られたことにひどく傷ついていました。

それ以来、人前で話すのが怖くなり、名前を言うだけの自己紹介も、ドキドキしていました。

集金がある部署では、苦情や怒鳴られる電話が毎日でした。

激しい恫喝の電話の時は、声や手が震え、何も話せなくなります。

怖さより、周りの職員に震えていることを気づかれるのではと不安でした。

この頃には、恫喝ではない普通の電話も苦痛になっていました。

自分から電話をかけるときは、ほかの職員に聞かれないよう静かな時を避けるように。

「完璧な自分でいなければいけない」

と自分に課していたのだと思います。

電話で話すことも、

人前で話すことも、

みんなに恥ずかしいところを見せたくないと、嫌でたまりませんでした。

心も体も限界を超えていた地獄の3年間

学校教育関係の職場に異動。

人数と仕事量が合っていない部署でした。

時間外勤務が当たり前で、終業の鐘が鳴っても皆、微動だにしません。

わたしだけに聞こえているの?異動当初はそう思うほどでした。

勤務時間中は電話や窓口が忙しく、
定時を過ぎてやっと自分の仕事ができる状態。

毎日残業で早く帰りたくて、夕食を取る人はいません。

わたしも左手にカロリーメイト、右手はパソコンで仕事をしていました。

平日は日付が変わった、25時過ぎに帰っていました。

土日の方が電話もなく仕事がはかどるので、休日出勤も普通にしていました。

月の時間外の過労死ラインは80時間と言われていた当時、私は200時間近くしていました。

80時間を超えると管理職に注意を受けるので、サービス残業が常態化していました。

「徹夜したって終わらない…」毎日絶望的な気持ちで過ごしていました。

この時期プライベートでは、2人の子どもの吹奏楽部の保護者役員を小・中掛け持ち。

上の学年のママたちは、苦情ばかりで一切手伝いはしません。

それでもがんばってる子どもたちのためだと

感情を押し殺して

「いい保護者をがんばっていました。

息子はエレクトーンとドラム、そろばんもやっていたので送迎や付き添いで

自分の時間はゼロ。

睡眠時間は3時間程度。

当時のささやかな夢はソファーに座ってドラマを見ることと、お風呂の湯船に浸かること。

何より1秒でも多く寝たいでした。

そんな中、息子は2年間ほぼ不登校になりました。

学校に行ってほしい、でもゆっくり向き合う時間がない。

泣き叫ぶ息子を、引きずるように学校に連れて行ったこともありました。

仕事と家事と役員と習い事と不登校を抱え、3年経ったころ、

わたしの体と脳は限界を超えていました。

毎日、頭痛と下痢と倦怠感で、這うようにして仕事に行っていました。

「過労死は他人事じゃない」

「すべて捨てて、消えてしまいたい」


「どうしたらいいの…」

帰りの車の中で頬が濡れていました。

「わたし泣いている?」

ようやく、わたしの本心が強制終了をかけたのです。

すがるような思いではじめてのカウンセリング

職場のストレスチェックがあり、保健室と相談し、

カウンセリングを受けることにしました。

初回は話そうとしても涙が止まらず、何も話せませんでした。

回を重ねるごとに冷静に話せるようになり、

「あなたがやらなくても誰かがやりますよ」

「人に頼っていいんです」

今思えばすごく当たり前のことでした。

異動するたび担当者が変わるのを繰り返してきたのに。

周りの職員もがんばっているし、

助けてなんて言えない

わたしがやらなければ、に縛られていたんだ…

今までのようにがんばり続けたら、もっと迷惑がかかると思い

「休ませてください」

人生ではじめて「できません」と言えた瞬間でした。

無理だとあきらめていた休職からの復活

すぐに休職し、役員の仕事も辞めました。

家事もほとんどせず、今までの分を取り戻すように眠り続けました。

無理してがんばらない、疲れたら休むを意識して過ごしました。

精神科は混んでいて、診察は数分しかありません。

投薬をしてもらうために通っていました。

休職中も定期的にカウンセリングを受けていました。

小さなできたことを褒めてもらうことで

ようやく自分は無理してがんばりすぎだったと納得しました。

うちの家族は、仕事も家事も子育てもなんでもママがすると当然のように思っていました。

はじめて家族に、具合悪くて今までみたいにできないし、しんどかったと打ち明けました。

娘と息子は自分で洗濯をし、高校のお弁当も3年間自分で作りました。

洗濯機も炊飯器も触ったことすらなかった夫は、ほとんどの家事をするようになり、学校や部活の仕事にも積極的に行くように。

「自分がやらなければ」と必死だったけれど、助けを求めると不満も言わずやるように変わりました。

「ガマンせず、自分の気持ちを伝えても大丈夫なんだ…」

しっかり休養し、無理だと諦めていた仕事に復帰することができました。

自分がしんどかった時、

誰にも言えなかった気持ちをすべて受け止めてくれたカウンセラーさん。

社会復帰できるまで

寄り添ってくれたことに、とても感謝しています。

助けてと言えず、あのままがんばり続けていたら、今のわたしはありません。

今も寝たきりの生活を送っていたかもしれません。

振り返ってみると、わたしの人生は

“生きづらさ”との闘いでした。

小さいころから

完璧を目指しガマンしてがんばり、周りに気を遣ういい人。

しかし、がんばろうとしても

人の心には限界がある

ということに気づかされました。

もっと早く助けてと声をあげていたら
もっとラクだったのに

「しんどい」や「助けて」は棒高跳びくらい高いハードルに感じていましたが

「言ってみたら意外と大丈夫なんだ…」

完璧じゃない自分でもいいんだ
と心が軽くなりました。

“心理療法ってすごい…”

わたしも、一人でガマンしてがんばっている人を
ラクにするお手伝いをしたいと思うようになりました。

心理講座も受講し、さらに心の在り方の大切さを再確認しました。

人は日々の生活の中でストレスや不安が積み重なっていきます。

そんなとき、

一人で抱え込まずに、誰かと話すことで気持ちが軽くなることもあります。

「仕事や家事を完璧にこなさないと気が済まない」

「疲れているのに、まだ大丈夫と無理をしてしまう」

「人に頼るのが苦手で、つい一人で抱え込む」

「いい人でいようと頑張りすぎる」

「自分がガマンすれば丸く収まる…」

そんな自分を変えたくても、どうしていいかわからない。

もし、そんな思いが少しでもあれば、どうか気軽にご相談ください。

「こんなことで相談なんて…」

いい人ほどガマンし、自分で何とかしようとがんばりがちですが、

“こんなこと”の段階でお話いただいたほうが早くスッキリできますよ。

カフェに気分転換に行くように、

誰もが気軽にカウンセリングを受ける世界がわたしの夢です。

ガマンして生き続けるほど人生は長くありません。

今、少しの勇気を出して、一歩踏み出してみませんか。

あなたの心に寄り添い

あなたらしく軽やかに
ラクに生きる人生を手に入れるための
サポートを全力で行います。 

まずはお気軽にご相談ください。

お会いできることを、心からお待ちしております。